2007年 12月 30日
「古来宗匠、生花の秘図」 とか 「花術生方心得」などに、
「出生を尊ぶ」の言葉があり、この 「出生」 とは、 生あるものが内にもっている 「本性」 を尊ぶことで、 その内にあるものが、よく現れるように、花を生けたのは、 人もそのようにあらねばと、考えていたからです。 〇 内にある本性が、ありのままに現れるように生ける時、「都てが合う」 事を思い、 ここに「花の道」 があるとし、それを忘れる時、「花の道」 が絶えると言っています。 (それは、当時すでに「眼に面白ければよい」とする、風潮があったそうです。) 〇 専好は、「出生を尊ぶ」 の心を判り易く 「生まれをつかう」 と言っています。 その意味で 「梅は直ぐなるこそ、いみじけれ」 といっています。 〇 これは 松、竹、梅、を一瓶に生ける 花の道に典型的なものとして、 取り上げてあり、「祝言」 には この姿にする、とされています。 相阿弥流百カ条秘伝書 〇 梅は、風霜に堪えて成長した時には、 「臥竜梅」 などと呼ばれ、 強ばった枝振りとなりますが、 その 「生まれ」を見る時には、 直ぐなる心と姿を持っています。 光琳の梅のシュートのように、 毎年若々しく 天に向かって素直に枝を伸ばします。 〇 一方の松も、若松の時は、 すっくり伸びた素直な姿をしています。 その若松の姿であってこそ、 生まれのままに直ぐなる梅と、 よく合う事ができ、 ここに 「祝言」とされる内容があり、 これも「久の都合」の考えで、 やさしく言えば 「生まれ合う」 事を率直に感じあう事です。 この 「うまれあう」 の五文字を 「天ヨリモ遙カナルモノカ」と言っています。 〇 茶人が、茶室の近くに、竹や松、梅の木を好んで植えたのは、 これを間近く見て、自分もそうあらねばと、 いつも想いをいたす為のものだったようです。 〇 いにしえの書にも、直ぐなる子育ての法として <子を身籠った親は、新竹のようにすくすく、素直に育ってほしいと願うが、 風が激しく雨嵐にあえば、松節瘤と蟠る。 痛みを逃れるずるさを、親が褒め 歓べば、子は拗け禍鬼(ハタレ)となるぞ 人の若葉も、我が儘に道にもとりて蟠る。 誤るな、親慎めよ、鈍き子も篤く教えて日を積めば、やや鈍さ去る。 松も素直に培えば、十年に直る兆しを得、三十年(ミソトシ)ややに伸び栄え、 百(モモ)の作り木 三百(ミモ)の梁 五百(イモ)は棟木ぞ、 人教(ヒトオシ)も、十年(トトセ)ほぼ成る、三十(ミソ)の梁、五十(イソ)は棟木ぞ。 子宝の棟、梁(ウツバリ)となる如く、人の住居(スマイ)の上にあり> とある。 〇 松、竹、梅に想いを致すことが、吉祥だと言う考え方は、 この国に 古くからあったもののようです。
by hokorin-touchan
| 2007-12-30 23:08
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